佐藤雅義さんの声 前編
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相馬の郵便局員として、必死に働いた
元郵便局員・佐藤雅義さん
福島県相馬市で郵便局員として長年働いてきた佐藤雅義さん。相馬の仲間からは「さとやん」という愛称で呼ばれています。15年前の東日本大震災のことをふりかえり、いま伝えたいことを聞きました。
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相馬市の郵便局員
生まれも育ちも相馬です。郵便局で定年まで勤め上げました。郵便局員になったきっかけですか? 当時、叔父が郵便局に勤めていて。試験を受けてみたら? と勧められたんです。当時は郵政省でしたから、郵便局員は国家公務員でした。同じ高校から10人くらいいたのかな? 一緒に試験を受けたんです。そしたら、受かったのが私だけだった。本当は大学に行きたかったんですけどね。
だけど、あのときコンポーネントステレオが欲しくってねえ。アンプ、CDプレーヤー、スピーカーを自由に組み合わせてセットするオーディオシステムが流行ってたんですよ。自分は電気屋でアルバイトしていたもんだから、ちょっと詳しくってね。30万円のステレオを、郵便局に勤めたら3万円✕10か月で買える! なんて単純計算してね。郵便局は2、3年で辞めちゃって、その後好きなことをしようっていう。そんな下心があって仕事を始めました。
いざ、始めてみたら、なんだか辞められなくってね。親父にも言われましたもん。「お前が一番親孝行もんだ」って。うちは3人兄弟で、私は長男なんですけど、下の2人は大学行ったんですよね。自分は高校出てすぐ働いたってことで親孝行だって言うんですね。当時は大学に行きたかったけれど、今思えばよかったなって。経済的なこともそうですけど、相馬のいろんなお宅に配達することで、顔見知りも増えるでしょ。いろんな出会いがありましたよ。
15年前の今日
3月11日の14時46分、私はいつものようにカブに乗って、郵便配達をしていました。ケータイに地震警報のアラームが鳴って、ものすごい揺れを感じた。目の前の家の瓦がぐらんぐらん揺れていて、今にも落ちてくるんじゃないかと思ったほど。家にいた母が心配だったんで帰ろうとしたら、国道がでこぼこに隆起していて通れる状態じゃなかった。別のルートで家に帰り、母の無事を確認しました。幸い、家は瓦が落ちていたものの、電気も水道も通っていてライフラインには不便がなかった。お風呂も入れるってことだったので、私はそこから仕事に戻ることにしました。
役場の防災無線で大津波警報が出て、津波が来るぞとなったのが、その約1時間後。郵便局から海までが約2キロ。郵便局は高台にあったので、屋上に避難しました。当時の郵便局は、海側に役場があって、屋上から直接海が見えない状態でした。その周りには田んぼが広がっていたんですが、しばらくすると真っ黒い水が流れてきた。
20、30年もこの地域を配達しているからわかるんですが、知っている家がそのまま流されてきたんです。駅前の◯◯さんの家だ……って。田んぼの上には、そのほかにもクルマや大きな漁船も流されてきて。隣にいた先輩と「信じられない」って話をしたのを覚えています。あのときは、この世が終わってしまうんじゃないかと思いました。
状況が全くわからなかったもので、3月11日が金曜日で、土曜と日曜と出勤をして、月曜日も来てくれと上司から言われたもんですから出ました。郵便配達員は、地域の住民としょっちゅう顔を合わすでしょう。住所も頭に入ってる。だから、必死で安否確認に走り回りました。局員のなかには、被災している人もいたんだけどね。※
※東日本大震災時、福島県新町町を含む沿岸部では、郵便局員が津波の被害に遭いながらも、住民の安否確認や郵便物の保全、迅速な業務再会に尽力していたと言います。震災直後は多くの郵便局が休止に追い込まれましたが、地域に根ざした活動を通じて復興を支え、防災への取り組みも継続されています。
いま、想うこと
15年経って、東日本大震災の復興はそれぞれの地域でどれだけ進んでるのか? 先日新聞で読んだんですが、岩手県や宮城県は8割復興が進んでいる。それに対して、福島県は5割。まだ半分にとどまっているんですって。それには、原発事故の問題が大きく影響していると思います……。
一方で、いいなと思っているのは、中学生や高校生、大学生といった若い人が語り部を引き受けてくれていること。15年前には生まれていない子もいるそうです。震災当時のことをいまに語り継ぎ、誰しもが自分事として防災意識を高めてもらいたいですね。
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後編につづく




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