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鈴木弘隆さんの声

更新日:2023年4月11日




僧侶としてできることをし続けた日々



摂取院 住職・鈴木弘隆さん



福島県相馬市にあるお寺「摂取院」。震災当時、たった一人からはじまり、全国から僧侶を集めた四十九日を取り仕切った住職・鈴木弘隆さんにお話をうかがいました。十三回忌だからこそ、お話くださった貴重なインタビューです。



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2011年のあの日の住職


3月11日、実は入院していたんです。手術したのが3月9日。宮城県の病院だったから、津波でやられてね。命は助かったけれど、医療が受けられる状態じゃなかったの。崩落した天井を見上げながら、院長先生が「鈴木さん、ここでは無理だよねえ?」と言ってさ。無理ですねえ、って答えたら「退院してください」と。1週間分の止血剤と脱脂綿をもらって退院することになりました。


さあどうしようというところに、隣のベッドだった青年が「奥さんが迎えに来るんですけど、ケータイの電池がなくなっちゃったんで、電話貸していただけませんか?」って話しかけてきてね、偶然相馬の人だったの。うちにも連絡したけどつながらないし、やっとつながったと思ったら、「迎えに行ける状況じゃない」って言われちゃってね。青年の奥さんが来たら一緒に帰ろう、ということになった。彼なんて昨日手術したばっかりだって言ってましたよ。俺も傷口が痛んだけど、俺よりひどいんだろうな……って。


青年の奥さんの避難所(※)への到着にもだいぶ時間がかかってね。すこし仮眠をして出発したのが3月12日。当時は宮城県沿岸の道路は津波で全部不通で、山側へ迂回をしながら帰りました。誘導する警察官が群馬県警の人でね、遠くから来てるんだなあって、驚きました。地震の翌日だよ?早いなあと思ってね。


※避難所……病院の隣の施設を急遽避難所とし、患者や病院関係者は避難していた。



摂取院の観音様


一方で、うち(摂取院)の状態も大変だったんだよね。じいちゃん・ばあちゃん(住職のご両親)もいたし、檀家さんのお墓もあるからね。妻は逃げずにいたんだよね。本堂の窓から見ていたら、津波が本堂のすぐそこまで来たと言います。波が瓦礫を一緒に運んでくるからね、ものすっごい音を立てて来たらしいんだよね。足がすくんで動かなかったって言ってました。もうダメだって思った瞬間に、すっと波が引いたんだって。観音様に助けられたなって。


そもそも3月11日も妻は見舞いに来ようとしていたんだよね。でも「今日はいいよ」って言ったんだ。術後の傷口も痛かったし、痛がる姿を見せたくなかったしね。それがなければ、沿岸の道路を通って来てたわけだから……。



震災後、寄贈された観音様。海が見えるようにと特注の台が設置された




励まし続けた日々


お寺に帰ってから、それはそれは忙しかったですね。亡くなった方が荼毘に付されるから。朝6時から火葬場に行って、拝んで帰ってきたのが23時。初日は食べるものは何かあるんじゃないかと思ってね、家からなんにも持っていかなかったの。そうしたら、飲まず食わずになっちゃった……。翌日からはさすがにちょっと食べるものは持っていったけど、毎日そのペースでしたね。


原発事故もあったからね、ほかのお寺のお坊さんたちは避難したみたいなんだよね。最初は檀家だけの火葬に出ていたけど、「宗派は違うんだけどお願いします」って言われてね、僧侶がいないんじゃしかたないよなってことで、宗派関係なく、亡くなった方に手を合わせる日々が続きました。


地震から1週間が過ぎた頃には、遺体安置所が元アルプス電気社屋にできてね。さらにそこにも行き、火葬場と行き来していました。

ガソリンもなくなっちゃってねえ。情報が入って、ガソリンスタンドの長蛇の列を並んでたんだけど、順番の直前になって、時間切れになってしまったことも。それを見ていた近所の人に「代わりに並んでいてあげますよ」なんて、手助けしてもらったこともあります。





四十九日は絶対にやりたい


僧侶として、一人で拝みつづけていましたが、まだまだ供養してもらっていない亡くなった方はたくさんいるんだと思ってね。知り合いの坊さんに片っぱしから連絡しました。「相馬に人を集めてくれ」って。それで、来るときになんでもいいから何か持ってきてくれって頼んだんです。そのくらい物がなかったから。北は北海道、南は高知県から僧侶が物資を持って集まってくれましたね。100人くらい集まればいいかなと算段していましたが、実際に集まったお坊さんは300人を超えていました。


そこで、四十九日の法要をやったんです。人は亡くなってから初七日(しょなのか)、二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)、四七日(よなのか)、五七日(いつなのか)、六七日(むなのか)と、四十九日までの道のりがあります。人間は生きていれば必ずなにか罪を犯している。外を歩いていてアリを踏みつぶしてしまっても殺生になりますから。だから、1週間ごとに供養して、7回目で身体を完全に清めてあの世へ送り出すという、四十九日はどうしてもやりたかった。


葬祭場の持っている大きなホールが借りられてね、会場に芳名帳を準備して来た人に名前を書いてもらったんだけど、来場者は3000人以上はいたみたい。外にも渋滞ができてたって後で聞きました。

故人の写真を持ってきた方にはお預かりして、壇上に飾りました。ボランティアの人や、まだ行方を探している人もいたからね、服装なんて気にしていられないでしょ。服装も自由でいいからって言ってね。もちろん、相馬の人じゃなくてもいいよって。

俺は亡くなった全員の供養をしたかった。



当時は、無我夢中……というより、坊さんとしてやるべきことをしなくちゃっていう使命感がありましたね。

おかげさまで、息子が坊さんになってくれてね。この間は一緒にお経を唱えました。いい声でねえ、俺より人気あるんだもんなあ。







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